内藤 (1972, pp. 128-129,134)は、姫街道は起伏が激しく、また道程が東海道の本道より20キロメートルも長く、「姫街道」という名称から連想されるような、女性が選んで通りたがるような生易しい街道ではなかった、として、(説1-1)や(説1-3)の傾向があったにしても、何のためにわざわざ本道よりも悪条件の本坂道を選んだのか理解に苦しむとして、(説1)そのものを疑わしいとしている。
『気賀宿文書』によると、宝永5年(1708年)から寛政7年(1794年)までの80余年の間に「姫様」と呼ばれるような身分の女性が通行した人数は22人で、平均4年に1人程度だった(ので、頻繁に「姫様」が通行していたわけではない)とされている。
楠戸 (2006, p. 76)およびみわ (2003, p. 178)は(説1-1)および(説1-2)を呼称の由来として挙げている。大山敷太郎は、(説1-1)‐(説1-3)を挙げた上で(説1-3)が正しいとし、白柳秀湖は(説1-1)が正しいと主張、内田旭は(説1)を全て否定した。
渡辺 (2012, p. 21)は、特に女性の利用が多かったかを解明することは宿帳などが残っていない状況からして困難だが、抜け参りの人々が本坂通を多く利用したことは間違いない、とし、事例として文政13年(1830年)にお蔭参りが流行した際に、本坂通が多く利用され、後に「気賀関所との関係で」問題になった、としている。同書では、東海道の本道の今切関所に対して「畏怖の念」を示す意味で、脇道の本坂通を利用したのだろう、としている。
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