浅井 は、徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われ、「入鉄砲出女」の取り締まりは厳しく、東海道の今切関所は、特に女性に対して取り調べが厳しいことで有名だった、としている。渡辺 は、これに加えて、今切関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても所定の女手形を必要とした点を指摘し、小杉 は、関所破りは極刑という掟があったことを指摘している。
内藤 (1972, p. 134)は、新居の関所には「改め婆」と呼ばれる、局部を視認して性別を改めるという風評もあり、女性の旅行者には敬遠されたのかもしれない、としながらも、旅人監視の厳しさでは、姫街道にも気賀関があり、本街道の新居関と差異はなかったのではないか、としている。大山敷太郎は、女性が今切関所を避けて本坂通を通行したものの、気賀関所の検閲も厳重だったとしたとされ、渡辺は大山の説を概ね支持するが、女性が東海道の本道を避けた理由は多様だった、としている。
小杉は、新井の裏関所である気賀関所の取り調べも厳しかったという反論があることに言及し、浜松市役所は、気賀関所の取り締まりは今切関所と何も変らなかった、としている。
小杉 は、もともと気賀関所の取調べは厳重であったが、江戸時代後期になると、幹線道路以外では関所の取調べがかなり緩やかになっており、関所手形を取得しにくい女性が通行する際に、関所破りをする例があったことを指摘している。例として、前出の清河八郎『西遊草』では、関所手形を持たない母と同道したために関所破りを繰り返しており、新潟県・長野県境にある関川の番所では最寄の宿に一泊した後、夜明け前に宿屋の手引きで関所破りをし、善光寺から名古屋へ行く際には福島関所がある中山道を避けて伊那街道を迂回して同街道を女性の取締りが緩やかな「女人道」と表現、飯田から中山道の木曾妻籠に出るときには清内路道の脇道である市之瀬番所を「女性を通さない関所だから」として関所の脇道を通過し、東海道では新居関所を避けて「御姫様海道」を来たものの、気賀にも関所があり「女中も容易に通さない」と聞いて、三ヶ日から舟を雇い、夜中に舟に乗って呉松へ渡る関所破りをしていた。他にも夜中に浜名湖を個人が舟で渡り、気賀の関所を破っている例がある。
白柳秀湖は、気賀関所には「犬潜り道」があり、検閲に手心が加えられていた、としている。
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