内藤 は、道程でいえば姫街道は本街道よりも20キロメートルも長くなり、本坂峠の急峻な坂道や静岡側の気賀までの間にある低い丘をいくつも越えなければならず、加えて山道には追いはぎや強盗が出没する不安もあったため、船渡しがあっても路面が平坦な本街道のほうが通行しやすく、道中の不安も少なかったのではないか、としている。
内山真龍の『遠江国風土記伝』は「嶺頭少しく平なり、駕を休むる所、嶺頭に人家なく、駅路の人馬寒暑に苦しむ」として本坂越えの苛酷さを記し、新居関所の関守をしていた富永政愈の『今切御関所由来』では「本坂越は道狭く坂けわしくて箱根、笛吹峠より難く、恰も蜀難の地の如し、一度往く者は二度越えんことを思わず」と記されている[55]。
浜松市役所 (1971, p. 180)は、今切渡船については「鳶も舞坂、天気(日和)も静か、名のみ荒井の 舟渡し」という諺があるほど普段は穏やかだったので、女性・子供でも特に不安はなかったはずだ、とし、小杉 (1997, pp. 171-172)もこの反論に言及している。
気賀関所 (2016a)は、宝永4年(1707年)の地震の後、浜名湖南岸を迂回するため本坂越の通行量が増加、幕府は宝永7年(1710年)に大名の本坂越を禁止したが、公家の奥方や姫君・女中衆はこの街道を使用し続けたことから、本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれた、としている。
小杉 (1997, pp. 174-175)では、(説4)および(説1-1)を幕末に「女人道」や「女街道」の呼び名が生まれた由来としながらも、特に「姫街道」「姫様街道」のように呼ばれた理由としては、関所手形を持っているため関所を忌避する必要のない身分の高い女性が本坂道を利用した理由があったはずだとし、『本坂道宿村大概帳』の中で「京都から姫や宮方が江戸に行く時は気賀や三ヶ日、嵩山などの宿場で人馬が不足するから、加助郷の触書を出さなくてはならない」として特に「姫や宮方」が本坂道を通ることを強調していることを指摘し、その理由は渡海を忌避したことにあったのではないか、としている。同書はその例として、文政元年(1818年)の菅沼斐雄[56]『袖くらべ』の中に、「香川景樹が舟を嫌うから荒井の渡しを避けて本街道より5里も遠回りになるけれど本坂越という山道を行く」旨の記載があることや、『東海道名所図会』の御油の項で本坂越が「荒井今切の海上を渡らずして陸路を行」く路と紹介されていることを挙げ、前出の清河八郎『西遊草』の記述もあり、渡海への不安に比べて、本坂越はさほど困難な峠道ではなかった、としている。
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