「姫街道」の呼称が定着した時期について、気賀関所 (2016a)は、宝永4年(1707年)の地震の後、本坂越を利用する公家の奥方や姫君・女中衆が増えたことによるとし、楠戸 2006, p. 76は、18世紀初めの享保の頃から、誰がいうともなく「姫街道」と呼ばれるようになった、としている。また白柳秀湖による「江戸初期から」、内田旭による「平安時代初期から」などの主張もあった。
しかし、万治元年(1658年)の『東海道名所記』や寛政9年(1796年)の『東海道名所図絵』、1802年の『東海道中膝栗毛』などでは、「本坂越」、「本坂道」、「二見の道」などの名称が用いられていて、江戸時代の公文書に「姫街道」の呼称はみられない。
江戸時代末期になって、民間文書に姫の名を冠した呼称が登場するため、「姫街道」の呼称はこの頃に定着したとみられている[36][37]。渡辺 は、幕末の文書・記録に記載があるためこの点は決着済み、としている。
安政元年(1854年)の大地震の後には、浜名湖の今切の渡しが停止して東海道の交通が麻痺したため、大名も本坂道へ迂回し、本坂越の交通量が増加した。翌安政2年(1855年)に山形県から母を伴って善光寺や伊勢神宮に参詣し、全国各地を半年かけて旅行した清河八郎は、旅日記『西遊草』の浜名郡三ケ日の項に、「此所は秋葉山へ往来の宿にて、往来もややあり。且昨年よりして大名も新井を通らず、まま此処より上下するありとぞ。すべて御姫様海道と名づけて、格別難儀にもあらざる道なり。」として、本坂越が「御姫様海道」と呼ばれており、40歳の母を連れた清河にとっても「特に大変な道でもなかった」と記している。
『浜松市史』第2巻は、安政3年(1856年)の絵図では、浜松宿から三方原追分に至る道を「姫街道」、安間一里塚から市野を経て三方原追分に至る道を「市野道」と記していた、としているが、この絵図は行方不明で未確認とされている。
万延元年(1860年)に五雲亭貞秀が描いた『東海道五十三次勝景』の中に「東海道五十三次之内浜松順路並姫街道木賀遠望」と題した浮世絵があり、同じ頃作成された「秋葉山参詣道程図」にも「姫様街道」と記載があることから、この頃には「姫街道」の呼称が定着していたとみられている。
1889年(明治22年)に発行の大日本帝国陸地測量部の2万分の1地図では、「姫街道」の呼称が使用された。
1907年(明治40年)の『大日本地名辞書』では、近世「姫街道」といわれるようになった、とされている。
1972年(昭和47年)には、「本坂道」よりも「姫街道」の呼称の方が有名になっている、とされている。
オーグ 下着|
オーグ 下着|
オーグ 下着|
オーグ 下着|
オーグ 下着|
オーグ 訪問販売|
オーグ 訪問販売|
オーグ 訪問販売|
オーグ 訪問販売|
オーグ 訪問販売